日日のクラフト MIU 美卯 松本民芸家具・世界の民芸・雑貨
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ギャラリー&インテリア 美卯 〜つれづれに〜

アカシアの小椅子

[ 2018-11-04 16:42 ]

気まぐれな冷たい秋の雨そぼふる日曜日、いかがおすごしですか?美卯オーナーです。

さて、この写真の椅子は倉敷本染手織研究所にあるアカシアの小椅子です。



アカシアの椅子は松本民芸家具の創業者池田三四郎氏が松本の周辺で大量に伐採されていたニセアカシアの間伐材の利用方法として思いついた木製家具です。
私は話には聴いていたのですが、実物を見たのは倉敷の研究所が初めてで、教えて頂くまで気が付きませんでした(^^ゞ

ニセアカシアの間伐材を加工しラッカーで塗装してやや赤みを帯びたこの家具は発表当時とても好評をはくしたそうです。
ですが、諸所の事情から作られたのはごく短い期間であり、貴重なものを研究所で見せて頂きました。
この小椅子についての経緯は久野恵一氏著『日本の手仕事をつなぐ旅 <いろいろ①>グラフィック社に詳しく述べられています。

平成の現代ならいざ知らず環境問題が今ほど注目されていなかった昭和後期にいち早く間伐材の利用に目を向け、
「間伐材を活かすのも民藝の木工の道だぞ」と語った池田三四郎会長の先見の明に改めてすごい方だったのだと頭が下がります。生前お会いした機会にもっといろいろ教えを乞うておけばよかったと今更ながらにとても後悔しています。

倉敷本染手織研究所

[ 2018-11-02 22:30 ]

11月になりました。今年はいつもより時間が早く過ぎているような気がします、美卯オーナーです。

9月の倉敷フォーラムから早2か月、今もまだその余韻が強く残っています。
とりわけ外村吉之介先生の創設された倉敷本染手織研究所を訪ねることができ感謝です。

倉敷本染手織研究所は昭和28年に美しいものを日本中に広めるために作られ、今日まで65年の間に約400名の織り手を育てています。



外村先生は海外や日本中を巡り「母が子供のために作ったものが一番美しい」という考えに至りました。
ですから研究所では売り物を作る職人の養成を目的とせず、当時は女性は結婚して母になることがことが当たり前とされた時代でもあり、将来それぞれの家庭で家族のために美しいものをつくる担い手として未婚の女性を全国から募り糸紡ぎから手織、本染まで教授しました。

さて倉敷本染手織研究所の「本染」とは?と思われた方もいるかもしれません。
本染について当研究所主任の石上梨影子先生によると、
「本染」とは(近代に)化学染料が登場したことでそれまで伝統的に使われてきた植物や鉱物その他の天然染料を用いた染め物を区別して呼ぶために生まれた言葉だそうです。

また「草木染」というジャンルもあるが、外村先生はこれを趣味的と嫌ったといいます。草木染めは身の回りにある植物のほとんど何からでもなんらかの色が出るが、中には堅牢度に難があるものも含まれているからだそうです。
外村先生は昔から染料として使われてきた堅牢度に実績のある先人たちの選びぬいた天然染料を用いる「本染』に拘ったのだそう。
外村先生に限らず民藝の先人には日常の道具であるからこそ作られたものの堅牢さ、つまり耐久性に拘ったという話をよく耳にします。

天然染料の中で一番の基本になるのが藍染ですが、今日でも研究生が卒業して各自の地元へ帰った時に自分で藍を染められるようにと毎年新しい藍をたてて実習を行っているそうです。

近年は織物の用途が衣類からインテリアの敷物などにと変化しつつあるといいますが、美しいものを日本中の家庭に広めたいという外村先生の伝道の精神は今も脈々と倉敷本染手織研究所はじめその卒業生たちによって受け継がれています。

外村吉之介先生

[ 2018-10-22 17:00 ]

秋の一日はとても短く感じますね、美卯オーナーです。

前回のブログでご紹介した外村吉之介先生は知れば知るほど興味深い方です。
まず、私と誕生日が一緒だということ・・・というのはただの偶然ですが(^^ゞ、


外村先生はキリスト教の神学校在学中から日本文学や芸術に関心があり、柳宗悦著『工藝の道』を読んだのをきっかけに柳宗悦先生に直接師事。
そして民藝の実践者となるために本人ははじめ陶芸を志したそうですが、柳先生の薦めで牧師の仕事の傍ら織物をはじめます。
戦前は静岡県掛川の葛布の再興に勤めたり、沖縄の琉球文化の伝統や街並み保存に力を注がれました。外村先生は琉球の織物をはじめその文化に民藝の原点を見、深く影響を受けたと伝えられますが、この部分はこれから深堀できたらいいなと思います。

沖縄はご存じの通り太平洋戦争の激戦地となり多くの人命と共にその貴重な文化のことごとくが失われてしまいました。
その事実を知った時の外村先生の無念はいかばかりだったでしょうか・・・。この沖縄とのかかわりが後年倉敷移住へと繋がったのかもしれないと勝手に想像してしまいます。
なぜなら、、、。戦時中に沖縄から倉敷紡績に挺身隊として動員されていた女子20数名が終戦によりアメリカに占領された沖縄に帰る事ができずに倉敷に取り残されます。その中には芭蕉布という琉球伝統の織物を生業とする家に生まれた平敏子さん(後年人間国宝になられます)がいて沖縄の工芸技術を守るために「沖縄工芸村」を倉敷にという構想が持ち上がります。
その指導者として倉敷へ来ないかと外村先生に声がかかったのですが、失われた沖縄への想いが先生を倉敷へ導いたのではないでしょうか。

昭和21年に倉敷へ移るにあたって外村先生は牧師をやめます。これ以降は伝道活動はせず、昭和28年に自宅に創設した倉敷本染手織研究所は生徒に織物の技術と民芸の心を教えましたが、ここでも布教をすることはなかったといいます。
生徒は住み込みで先生一家と寝食を共にする生活でしたが、食前のお祈りは先生だけがされていたとか―。
戦前は民藝の活動を熱心に取り組みながらも牧師としても活躍されていたのになぜやめてしまったのかとても気になります。

外村先生はじめ民藝の先達が時代の波に翻弄されながらも自らの信念を生ききった姿には学ぶところが余りにも多く興味が尽きません。

倉敷美観地区に学ぶ

[ 2018-10-21 17:20 ]

今日は雲一つない美しい青空の広がる我が街より、美卯オーナーです。
心地よい秋の行楽日和の休日、旅心がふつふつとしてきます。

9月に訪れた倉敷の街では様々に学びを深めましたが、その一つが倉敷美観地区の保存についてです。



江戸時代の街並みの景観がほぼそのままの美観地区ですが、現代まで自然に残ってきたわけではありません。

当然明治以降の近代化と戦後の復興再開発の波の中で成り行きに任せていれば日本中で行われた列島改造の中でとうの昔に失われていたことでしょう。

我が街を振り返ってみてもそうですが、身近なものほどその価値を見誤り易いようで後に遺しておけば街のシンボルになったであろう歴史的建造物が既にない事を悔やまれることしばしばです。

倉敷にしても同じ道をたどる可能性があったわけですが、その街に戦後昭和21年に織物の指導者として招かれた外村吉之介が家族と共に移住してきます。
外村先生は民藝の提唱者である柳宗悦師の直弟子であり、キリスト教牧師の仕事の傍ら戦前から沖縄の織物研究や街並み保存に尽力されていました。

そんな外村先生が倉敷の街並みをはじめて眺めた時どんな感想を持たれたのか興味深いところです。
当時ほとんど日本中の市街が戦争で灰燼に帰す中でこの美しい街を見て絶対にこの景観を後世に残さなければならないと思ったのではないでしょうか。また外村先生は“外”からやって来たからこそより深くこの街の貴重さに気付けたのではないでしょうか。

外村先生は倉敷紡績(クラレ)創業家であり大原美術館を設立した大原家の支援の元、岡山県民藝協会を設立、倉敷にある伝統的な建物の保存運動を展開。その活動のお蔭で現在私たちはこの美しい街を観光できるのですが、近年日本各地で起こっている街並み保存運動の原点はここにあるのかもしれません。外村先生をはじめ民藝の先達の先見性に改めて驚かされます。

今日、美観地区は倉敷川河畔のみならず周辺の路地へも整備が進み面としても広がって、街歩きの楽しさも増しています。

倉敷へー

[ 2018-10-13 16:42 ]

朝晩めっきり寒くなりましたね、美卯オーナーです。

まだ夏の名残のある9月初旬に倉敷へ民藝を訪ねて来ました。

倉敷は20数年ぶりだったのですが、前回は観光バスツアーのため時間が短くでしっかり廻っていませんでした。
今回は手仕事フォーラムさん主催の全国フォーラムに参加、倉敷にある民芸縁の各所を巡りです。

自宅から倉敷までは鉄道を使って行きましたから、倉敷駅から目的地まで地図を頼りに街を歩き回ることになり、おかげで倉敷の街を立体的に知ることが出来ました。
やはり徒歩であれば街の小さな路地までも隅々まで入って行けるので、新しい発見や出会いがあり愉しめます。
今回は残念なことに雨降りがほとんどでしたが、倉敷のような街は雨が町の風情をより深めてくれるので美しかったですよ(負け惜しみでなく・・・(^^ゞ)

20年前との違いは運河沿いの木がとても大きくなっていたことと、やはり外国人観光客がとても多かったことですか、、、。
でも大原美術館をはじめどっしりと変わらない安定した風景に心癒されるものがありました。

私は勉強不足で余り知らなかったのですが、今回のツアーに参加して倉敷美観地区の現在の在り様は民藝運動によって護られ現代へ受け継がれたという重大な事実を知りました。現代の街づくり研究の視点からも大変興味深い事実です。

民藝の運動家であった先人たちの先見性と叡智には目を瞠るばかりですし、そういった街であるからこそ現代でも倉敷は誇り高く手仕事を守る職人が育つ土壌をもっているのだと思いました。

 

「健康で、無駄がなく、真面目で、威張らない」

[ 2018-08-20 16:23 ]

連日の炎暑が嘘のように落ち着いているこの数日、このまま穏やかな秋になって欲しいものですね、美卯オーナーです。


民藝を表すのに「用の美」という言葉がよく用いられますが、この言葉にはさらに説明が必要になってしまいます。

聴いた方がそのまま理解できるのは倉敷民藝館の元館長・外村吉之介(とのむらきちのすけ)が民藝の精神を説いた

健康で、無駄がなく真面目で、威張らない

という言葉ではないでしょうか。

外村先生は民藝の手仕事はこの精神の元になされるとされましたが、民藝と共に歩む人の生き方も示唆されているように思います。

日々の中でついつい自分という器の中を自我で一杯にして傲慢になりがちな私には「真面目で威張らない」という言葉が心に深く落ちてきます。

民藝の手仕事から生まれた品々を日常に使うことを通じて、日々我を省み毎日を謙虚に過ごしていきたいものです。

あなたはアームレス派?それとも・・・

[ 2018-06-30 15:55 ]

気が付けば2018年も折り返し地点!!!あっという間の半年間でしたね。
関東では観測史上初の6月の梅雨明けとか?自然界も人間界も荒々しく事柄がてんこ盛りでフォローしきれない、お久しぶり美卯オーナーです(-_-;)

さて、 美卯一番のお勧めアイテムは松本民芸家具の手仕事で作られた椅子の数々ですが、デザインはじめサイズなどお使いになる方のライフスタイルにあった椅子をお客様とお話しながらアドバイスさせて頂いています。

私はお客様にお勧めする際には現在の椅子の使い方のみならず、数十年後のライフスタイルを見通してご提案します。
なぜなら、松本民芸家具の椅子は「一生ものの椅子」だからです。

丈夫で飽きのこないデザインの松本民芸家具は一度ご購入されれば、お使いになる方、ご家族ととても長いお付き合いになります。ですから若人から年齢を重ねられた方も快適にお使いになれるようご一緒に考えたいと思います。

そこでまず一番簡単なポイントとして、腕を置くアーム付とアームのない椅子、どちらを選びますか?という事。
(写真左#72リーチ型チェア  写真右#85リーチ型アームチェア アーム有無の類似型製品有)

一般にダイニングチェアなどは立ち座りが多いためアームレス椅子の方が立ち座りに邪魔にならないからと選ばれます。
それはそれでよいのですが、年を重ねご高齢になるとアームが付いていた方が支えとなって立ち座りが安全になります。

勿論お使いになる方の用途やお好みでお気に入りの一脚をお選び下さい。何よりも大切なのは愛着の持てる椅子をお選び頂けることです。

住宅の欧風化と共に椅子は日本人の生活になくてはならない“伴”となりました。
人生の良き伴侶としてのあなただけの椅子を見つけに美卯へご来店お待ちしております。

松本民芸家具ラインナップ掲載しました。

[ 2018-05-28 16:37 ]

心地よい五月からしっとり梅雨の六月へ、季節が移りますね、美卯オーナーです。



さて、松本民芸家具には2000ほどのアイテムがラインアップされていますが、
その中で選りすぐりの代表的な製品をこの度美卯のHPに掲載いたしました。
椅子からテーブル、食器棚をはじめとする箱ものなど、多彩な美しい松本民芸家具の
数々をまずはホームページでお楽しみ下さい。
http://www.miu138.jp/lineup/lineup_category/matsumin/

掲載された他にも豊富なデザイン、サイズがございます。

また、これらの家具を基本にしてお客様オリジナルの松本民芸家具をお造りすることができます。
美卯のインテリアコーディネーターがデザインのお手伝いをいたしますのでお気軽にお問合せ下さい。

勿論、美卯へご来店いただいて松本民芸家具の材質、品質、技術をご自身の五感で体感して頂きたいと存じますので
皆様のご来店をお待ちしております。

美は超越す2

[ 2018-05-18 16:10 ]

まだ5月というのに、蒸し蒸しとした毎日が続いている尾張国一宮より美卯オーナーです。



”民藝”とは、この頃ではライフスタイルデザインの一ジャンルと見られがちのの様ですね。
作り手である職人さんに光が当たるのはとても喜ばしいし、応援して下さる方が増えているのはとても素晴らしい事ですが、その一方でもっと民藝の歴史、特に創始者である柳宗悦師を知って欲しいともつい思ってしまいます。

柳の人生は明治から太平洋戦争を経て昭和の中期までと、日本近代化の激流の中にありました。
日本陸軍高官の子息でありながら自由闊達、思想家であり、様々な分野において現場第一主義の研究者であったと思います。

余りに幅広い研究対象と近代化により整備されつつあった交通網を駆使しての国内外への美を求める旅の数々、そのパワフルな行動力に驚かされます。今民藝の品として目に触れる伝統工芸のほとんどは柳が各地を駆け回って見つけた手仕事からつくられています。―とはいえ当時のアナログな交通手段を考えるとその苦労は想像を絶します。

数々の豊富なエピソードを持つ柳ですが、私にとって何よりも注目するのは柳にとっての「美」とはどういう存在だったかについて―(でもこの辺りは抽象的で説明辛いところ―)です。

柳宗悦という方にはかなり超越した部分があって、偏見とか差別意識が薄く、戦前の一般日本人がひどく差別していた朝鮮、沖縄(琉球)、アイヌ、台湾の美しい文化を評価。直観的に見てどんな背景を持っていて誰が、どこで作ったとしても美しいものは美しいのだという揺るぎない信念を持っていたようです。
何と言っても民藝運動のはじまりが柳と朝鮮の名もない陶工たちがつくった朝鮮雑器との出会いだったことがとても象徴的。

このように柳は多文化、民族の共生を訴え多様性の価値を『複合の美の平和思想』として説きました。
帝国主義の日本帝国は植民地では現地の人々に生活、文化において日本への同化政策を取っており、こうした柳の言動はとても勇気のいる事でした。

柳は非暴力重視であり、インドのガンジーやクエーカー教徒の絶対平和主義に共感していたともいいます。
「美」というソフトパワーとしての文化の力を駆使して世界を弱者にもやさしい平和な社会を実現したい、そして中でも優れた手仕事により生まれた美にこそその力が宿っていると確信したのではないでしょうか。

美は超越す1

[ 2018-05-14 15:44 ]

奄美大島編に入った大河ドラマ『西郷どん』に映る美しいアマミンブルーに悩殺され旅情が募って、美卯オーナーです。

我が家には古い薩摩焼の徳利があり、父が鹿児島出身の親友から贈られ大切にしています。
とても気の良い優しい大切な友人でしたが、ただ一つ父が哀しく思う言動がありました。
それは薩摩藩が被支配していた沖縄をはじめとした島人に対するびっくりするような差別感情の強さです。

父は長野県松本市にある学校に進学して民藝運動に出会い、松本民芸家具創業者の池田三四郎氏の元で民藝の美について学びました。
ですから、若いうちから沖縄(琉球)文化の素晴らしさを見聞きしていたので、友人の偏見を残念に思ったのです。
そんな父は、私の成人式の振袖は沖縄の紅型にすると言って絶対譲りませんでした(私は別のを選んだのですが^^;)

でも、その出来事が切っ掛けで私も沖縄の工芸に興味を持ち、20代の頃一人旅で紅型やガラス工房を巡った事があります。
ただ、その頃は全然知識がない頃だったので不完全燃焼に。今ならちょっとは熟成出来たようなのでまた改めて時間をかけて巡ってみたいと思っていますが―。(大人になると時間と体力がないものですね・・・^^;)
加えて奄美大島には大島紬があるので、自然と共に物凄く心惹かれます。もっと織物の基礎を学んだら是非行ってみたいですね。

織物や焼物などの工芸をはじめ、唄と踊りなどといった芸能を含めて世界中の営みに“美”は溢れ、それのどれに優劣をつけることができません。
その事に日本人でもっとも早くに気づいたのが民藝運動の創始者・柳宗悦師ではなかったかと思うのです。

 

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