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ギャラリー&インテリア 美卯 〜つれづれに〜

河川津波の記憶

[ 2018-03-05 17:13 ]

 早朝、突然の雷鳴で飛び起きました、美卯オーナーです。春の嵐ですね。

もうすぐまた、あの日、3・11東北大震災の日がやってきます。
つい先日までオリンピックに沸き、まるでその様な出来事が無かったかのような報道が続きましたが、3月に入って震災関連の番組が一部でみられるようになってきました。

その中で特に注目したのはNHK特集の『河川津波』。
津波は直接陸地を襲うだけではなく、河川を遡ることで海から離れた陸地に到達して大きな被害を及ぼすことがあります。

私たちの街には木曽川をはじめとした一級河川が何本も流れていますが、幸いにして河口より50キロほど離れているため、この被害は免れそうです。
そんな現在の環境ですが、私が地震災害について興味を持つ切っ掛けは母が語ったこの河川津波だったのです。

私の母は1944年12月7日 (昭和19年) に発生した東南海地震( M7.9)の被災者です。
母の家は東京都三鷹市にあったのですが、戦時下であり学童(集団)疎開としてその時は親元を離れて静岡県御前崎市(現)辺りに寄宿していたそうです。

当時は地元の小学校を午後から疎開学童が間借りする形で授業が行われていたそうで、その日は母が登校して教室に入った途端机や椅子が大きく揺れ始めました。発災時刻は記録によると13時36分。震度は御前崎は5~6(戦時中の故かアバウト?)。
慌てて校庭へ避難するも地面は激しく波を打ってまともに歩くこともままならなかったとかー。
誰が叫んだのでしょうか?「大人の声で高台へ走れ!!!」との声で皆で必死に高台へ上ったそうです。

その高台で母たちが見たのは河を遡る白い一本の線のような波ー。
母にとって戦争による困難の中、空腹やシラミの痒みとの戦い以上にこの体験は深く刻まれたようで何度もこの話を聴かされましたが、
母はこの白い波はなぜ起きたのか、その正体を生涯知ることはありませんでした。

そして後年、私はこの母の見たこの白い波の正体を知ることになります、東日本大震災の空撮実況放送で、、、。
まさか、地震により発生した巨大津波を実況で見るなんて思いもよらない事であったと同時に、母が見たあの白い一本の線の正体が何であったのか、その時知ったのです。もし母が生きていてこの光景を見て何と言ったであろうかと、不謹慎にも何度も思いました。

東日本大震災の日は母の命日にとても近く、どうしても母の思い出と重なります。
家族と離れ12歳だった母が同級生たちと被災地でどんな気持ちですごしたのだろうか?それが東北の被災した方々の姿と被りました。

この昭和東南海地震は太平洋戦争下であり「戦力の低下を敵に知られないため」という理由から発生は隠され、被害調査も記録もあまり残されていないのがとても残念です。この記録があれば御前崎に原子力発電所はできなかったかもしれませんね。

―今年も東北へ深く思いを馳せたいと思います。


#河川津波 #昭和東南海地震 #学童疎開と昭和東南海地震

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